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無間書房

血潮吹く感傷と100万回死ぬ言葉。 無間書房は、火の国熊本発の文芸同人サークルです。

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正しい日本語主義者と、さあるの大群

おかしな言葉遣いが好きだ。保守的で衒学的な「正しい日本語主義者」はクソ喰らえだと思っている。

 と言うと何かしらの主義思想があるようだが、要するに正しい言葉遣いをするのがめんどくさいだけだったりする。ああ! 正しい日本語主義者だったら、並列要素がないのに「~たり」を使ってはならないと言うのであろう。めんどくさい。すべからくめんどくさい。ちなみに、「すべからく」というのは響きが良いからなんとなく使っているだけである。

 おかしな言葉遣いは、日常のそこかしこで常に錬成されていくものである。言葉には流行というものがあって、それは個人レベルで、あるいは社会レベルで起こっている。ちなみに、僕が今一番気になっている流行語は「~さある」だ。僕の周りだけで使われているのかと疑ってTwitterで検索をかけてみれば、出るわでるわ、さあるの大群。

「今日フルコマ、つらさある」
「まだ眠さあるから、布団なう」
「こっちの方が使いやすさある」
「生田斗真主演のグラスホッパー見たさある」

 僕がよく見るのは、「つらさある」と「眠たさある」の二つ。「今日の晩飯もカレー、辛さある」というツイートを見つけ、どっちの読み方するんだろう? とか疑問に思っていたりしたこともあったり。

 この「さある」って耳慣れないということは文法的におかしいはずなんだけど、好きで使っている人たちはきっと語感が良いから使ってるんだろう。僕は、「~けど」よりも語感が良いので、「~けれど」を使うことが多い。それと一緒、かな? ら抜きも叩かれることが多い(最近は擁護派も多い)けれど、文章によってはら抜き使った方が語感良いときってあるよなー、というのが個人的な感想だ。

 ぶっちゃけた話、僕はこの「さある」を見たり聞いたりすると、なんだかあまりいい気持ちはしない。しないんだけど、ある特殊な語感があることは認める。そして、その語感に魅力を感じる人が使うというのは、とても素敵なことだと思う。「その言葉遣いはおかしいよ! 形容詞の名詞化接尾辞『さ』はそんな使い方しないよ!!」という方があるかと思うけれど、どういう風におかしいのか考えるのがめんどくさいので、僕はここに思考停止を宣言することとする。




追記
「~さ+ある」の形にすると全て違和感があるのかと思えば、「高さあるし、あの山は登れない」という例文だと、そうおかしくもないと思う。他の人はおかしいと思うのかなあ。

追記2
自己紹介を忘れていました。篠原歩と申します。ペンネームです。他のことは「あとーす」という名前でやっております。本名を出しても良いのですが、混乱しそうなのでやめます。Twitterやってます。→@ATOHSaaa



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自己紹介

自分で言うのもなんですが、私は真面目な人間です。
真面目とは何ぞや。

 定義も曖昧に連呼するのも如何なものかと思いますが、真面目とはよいものです。この世には、真面目な人間が真面目であり続けることで救われる、そういった場所が必要です。

 私はただ、真面目に優しくありたいと思っている真面目な人間と、真面目に綺麗事を並べ立てて、真面目に優しくあるための努力をしたい。どうぞ笑ってください。

 しかしなんとも馬鹿らしいんだよ真面目に生きることは。だからみんな、虐げられてきた悩んできたそんなふりをしながらも、人生なんだかんだうまくやって、なんだかんだ他人の悪口で盛り上がる。実はそういうのって胸糞悪い、と思う人が真面目なのではないだろうか、と私は思います。敷かれたレールの上を歩む者が真面目であるというわけではありません。真面目に不真面目という言葉に矛盾はありません。

 私はなんにもできない真面目だけの人間だから、半端にアウトローに憧れて憧れて憧れて、憧れていたのに、本気で真面目を貫く馬鹿らしくて素晴らしい人間を目の当たりにする度に、自分がいかに半端ものかを実感してしまうような、そんな日々を送ってきました。
真面目に生きることはとても馬鹿らしくて、それでも真面目に生きる人のことを笑わない綺麗事まみれの優しい人間になりたい。私はそういう真面目な人間です。


まずは自己紹介でも書けばどうかと言われて、しかし好きな食べ物なんか書いたってしょうがないので、悩んだ結果惨めったらしい自己主張に終わってしまいました。どうも私はいろんな発言を誇張してしまうきらいがあります。この文章だって、指定された期日ギリギリに書いているので、本当は真面目じゃない部分の方が多いのかもしれません……。
あと、昨日「真面目」って漢字が書けなくて恥かいた。小学校の頃、シンメンモク……シンメンモク……ってひたすら音読みして覚えた記憶があります。きっと、とっても真面目だったんだね。

御機嫌よう。節子と申します。

御機嫌よう。節子と申します。苗字のほうは、満艦飾がいいやら、総天然色がいいやら、キルシュタインがいいやら、フンベルト・フォン・ジッキンゲンがいいやら、いろんなことを言われております。同人誌に作品を投稿するときは、そのときの気分で苗字を決めております。一回しか投稿したことないけど。

 この無間書房のブログの初回の記事で、私は何を書いたらいいのかいまだに分からずにいます。支離滅裂なことを書くと思います。文句は管理者の篠原さんに言ってください。だって私は何を書けばいいのか分からないのだもの。

 つい先刻まで雨が窓を叩くように降っていました。私はお部屋のなかで、ぼんやりしておりました。しかし窓はしっかりと閉めておりました。なぜなら窓を開けていたら雨が吹き込むからです。雨が部屋の中に吹き込むのもなかなかの風情がありますが、そのときの私は風情よりも実害のほうを気にしたのでございます。そうして窓を閉めておりますと、雨が窓に叩きつけられていい音をさせておりました。私はお部屋のなかで、絶対に濡れることはないんだ! と誇らしい気持ちになっておりました。なんとなく勝ったような気持ちになっておりました。もっとも、雨がもっと激しくなって排水機能が失われればこの限りではないでしょうが。

 雨が吹き込むといえば、皆様はNHKの朝の連続ドラマ「花子とアン」を御覧になっていらっしゃいますでしょうか。第14週(6月30日~7月5日)では、雨が降るシーンが多くありました。雨のなか、村岡印刷さんに抱きしめられたことを、花子は雨が降るたびに思い出していました。雨には人をせつなくさせるものがありますね。放送されたのが雨がよく降る季節で、私も雨を見るたびに村岡印刷さんと花子の恋の行方を気にしておりました。

 私は先日まで教育実習に行っていたのですが、中高生は雨が降ると、登下校や部活動、体育の授業の心配をするようです。生徒たちの日記を見ると、中高生の関心事の一端が分かってなかなかにおもしろいものでございます。今の中高生に人気のアイドルグループは「嵐」のようです。私が中高生の時分にも大人気でございました。「嵐」がデビューした当時、私は嵐という名前から、ハードロックやらパンクやらのバンドかと思っておりました。数年後、ちょくちょく女子の間で「嵐」という名前を聞くようになって、何かと思ったらアイドルグループなのでありました。なぜこんなにも人気なのか。格好良くて可愛いから。だと思います。
来週になれば梅雨も明けるでしょうか。御機嫌よう。さようなら。x

最近読んだ本

初めまして、香川ゆとりと申します。うどんが好きだから香川、という単純な理由でペンネームをつけました。ちなみにトッピングは海老フライが好きです。以後お見知りおきを。

 さて、私は大学において欧米文学を学んでいます。ドイツ文学が専門ということで、卒業までにはゲーテ、シラー、カフカ、トーマス・マンといった名だたる文豪たちに挑まなければなりません。とりあえずはゲーテかなという至極安直な思いつきからゲーテの作品を何作か拝読しました。『若きウェルテルの悩み』、『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』そしてドイツ文学最大の傑作と言われる『ファウスト』。今回はその『ファウスト』に対する感想を少し綴らせていただこうかと思います。

 『ファウスト』は、ドイツを中心として広まったファウスト博士の伝説をモチーフとしています。悪魔と契約し、その代償として悲惨な死を遂げたと噂された彼の物語は多くの作家によって書かれました。イギリスのマーロウを初めとして、ドイツではレッシング、ハイネ、トーマス・マンなどが好んでこの題材に挑戦しています。中でもゲーテの『ファウスト』は、その質、量、共に圧巻です。因みに、この作品に影響を受けた人は多く、日本では手塚治虫が大の『ファウスト』ファンであったと知られています。

 『ファウスト』を読むに当たって、ギリシャ・ローマ神話、及びキリスト教に関してわずかながら見聞があったのが幸いしたと感じます。というのも、この作品が“ユーモアの達人”ゲーテの書いた戯曲である以上、言葉の隅々に思わずクスッと笑ってしまうような、いわゆる「ネタ」が仕込んであるわけです。『ファウスト』の登場人物達は、「ここはこうだから面白い!」なんて無粋な説明は一切しません。観客の、引いては読み手の知識に委ねられているのです。もちろんそんな知識がなくとも純粋にストーリーだけを楽しむことはできるのですが、相当うまい訳者のものを読まない限りは、最後まで気力が持たないでしょう。何より、ゲーテが散らした言葉の花々を踏んづけて通ってしまうのは途轍もなく惜しいことです。

 「知」とは何か、「生きる」とは何か、「愛」とは何か……『ファウスト』には人々が改めて自分自身に対して問うべき様々なテーマが渦巻いています。実際、登場人物達の言葉は時代も国境も超えて、何度も何度も私の胸を深く刺してきました。その壮大すぎる物語に辟易してしまうこともあるかもしれませんが、ぜひ一度、多くの人にじっくりと『ファウスト』を読んでほしいと思います。

「夢」のおはなし

はじめまして、マジマです。今回の担当は僕になります、頑張ります

さて、人の憂き世には、聞いても一文の得にもならない話というものが三つございます
「親戚の自慢話」、「高額宝くじが当選した場合の使い道」、そして「昨日見た夢の話」
前者ふたつは本当に毒にも薬にも成り得ない、どうしようもない話ですが、「昨日見た夢の話」。こいつは時たま、非常に興味深い科学変化を起こすことがあります

今回は、そんなお話

何の得にもなりゃしませんが、お付き合い頂ければ幸いです

「夢」。よくよく考えてみれば、非常にオモシロイ事象だと思いませんか?
「ソコ」で巻き起こる出来事は実に奇想天外
現実空間にはおおよそ存在し得ないような生き物が悠々と闊歩していたり、お亡くなりになっていたはずの親戚一同が客席で正座していたり、生身で空を飛んだり

なにより興味深いのは、夢を観ている当人は、そんな珍妙不可思議な出来事に「何の違和感も抱かない」ということ
人が死のうが部屋が爆破されようが妖精が舞おうが、まったくもっておかまいなし
それを当たり前の「日常」として受け入れさせてしまう、そんな力が「夢」にはあるのです

ところで「明晰夢」というものを御存知でしょうか?所謂、「自分はいま、夢を見ている」と知覚することのできる夢です

この「明晰夢」、果たして本当に夢なのでしょうか

「夢の中で自分が死んでも、目が覚めたら実際に死んでいないのは何故か?」
これ厳密には、夢の中で自分が死ぬようなシチュエーションに陥ったとしても、「死んだ」と知覚する前に目を覚ましてしまうから、だそうです
もし、「その瞬間」まで目が覚めず、夢の中で死んでしまったら――――その人間の脳は「自分が死んだ」と思い込み、身体の機能を停止させてしまうのだとか

つまり、夢の中であろうとも、現実と同じく「死」は「死」なわけです
ただし夢の中においては、本当に死まで辿り着いてしまわぬよう、「直前で目が覚める」というストッパーを掛けてくれている
イヤア、人間の身体ってよくできてますねえ

しかし、これが「明晰夢」ならどうでしょう

自分が夢の中にいるということが知覚されている状態。この状態で果たして「ストッパー」は掛かってくれるのでしょうか
ちょっと考えにくくありませんか?夢の中で死をギリギリで逃れて目が覚める時って、「ハッ! 夢か」ってなるでしょ?
このときばかりは命の手綱が自分に握らされている、僕にはそういう風に思えるんですよねえ

つまり、「夢」とはそれを「夢」と認識していないからこそ「夢」であり、「夢」を「夢」と認識しているなら、それはまごうことなき「現実」である
そんなことが夢に関して言えるんじゃないでしょうか

貴方が今後もし明晰夢を見るようなことがある場合。その時はなんとかして早めに目を覚ますか、なるべく死に向かわないように行動するべきです、さもないと

ホントにしんじゃうかも

いやはや、オソロシイオソロシイ
そんなちょっとホラーチックな一面があるからこそ、人は何の得にもならない夢の話を他人にしたがるし、そして、なんだかんだ聞いてしまうのでしょうナァ