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無間書房

血潮吹く感傷と100万回死ぬ言葉。 無間書房は、火の国熊本発の文芸同人サークルです。

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第二回大阪文学フリマに参加しました!

こんにちは、無間書房同人の篠原です。


さてさて、昨日9月14日は第2回大阪文学フリマでした。無間書房も、初の文芸誌を引っさげて参加しましたよ(^O^)

一般入場よりも一時間早く入って準備をしたのですが、サークル数の多さに圧倒されました。305サークル参加ということで、すごいなあと感心しておりましたよ、僕は。そんな中で設営したわけですが、イベント初参加としてはなかなかうまくできたんじゃないかと思っております(同人の麦おこわが主に頑張りました)。

ブックカバーとしおりのセットは7つすべて完売! LAZURITEも13冊お渡しすることができました(っ・ω・)っ 初参加にしては上出来なのかなあと思っています。

LAZIRITEはまだ結構余っているので、皆様にお渡しする方法を色々と思案しているところです。ブックカバーとしおりも増産するかも!? 欲しいという方は、是非御連絡下さい。


さてさて、他のサークルさんもお邪魔してきましたが、どこもかしこも凄かったですね(`・ω・´)
僕らも様々なサークルの冊子をゲットしたので、その感想なんかもこのブログやTwitterに書けるといいなあと思っております。


本日スペースに寄ってくださった方はありがとうございました! また文フリに参加したいと思いますので、そのときもよろしくお願いいたします。
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おしりの曲線を追求したい

▼おしりの曲線を追求したい
無間書房が今年度の文学フリマにて頒布予定の雑誌「lazurite」の表紙案を練っております。わしゃわしゃと色を乗せる至福のひととき。しかしながら記念すべき創刊号、あまりに乙女チックな絵もどうなのか、と我に返りシンプルな図案にも挑戦してみましたが、既に挫折してしまいそうです。

▼力尽きた
表紙が魅力的な雑誌は数多く発行されているのですが、個人的な一推しは小学館の小説雑誌「きらら」。現在は表紙絵をイラストレーターである中村佑介氏が担当していて(アジカンのCDジャケットなどで有名でしょうか)毎号毎号、四季を感じさせる少女達が表紙を飾っています。
大きく目を引く、鮮やかさと可愛らしさ。手にとってじっくり眺めたくなる、緻密に描き込まれたモチーフ。思わず中身を読んでみたくなるのは、こうした魅力による部分が大きいかもしれません。
暑くて、じめじめして、美味しいごはんを食べる気力すらも奪う夏。はやく過ぎてしまえと思うものの、早朝の澄んだ空気や夕暮れ時の寂しさに、なんとなく心を動かされてしまいます。
ラジオ体操。昆虫採集。家族で囲む夕餉の時間……。そんなひと夏の思い出を描く「ぼくの夏休み」。名作です。

「狂気」のおはなし

はい、僕の担当は二回目になりますね、マジマです

「狂気」なんてのは、文芸を嗜む人間にとって非常に便利の良い要素だったりします

「恐怖」にもなるし、「笑い」にもなる。時には「感動」の威力を増すエッセンスと化したり、なんてことも
まあ、その分扱いは難しいものです。実力のない人間が安易に用いると、意図した要素と正反対に読者に作用してしまう、なんてのはザラに起こり得ること

文芸に対する「劇薬」。「狂気」というものを私が比喩するとしたら、そんな表現になります

そんな「狂気」、昨今では「個性」として好意的に利用されていることが多いように、自分には見受けられます
貴方の周りに、「自分は正常だ」と認識していながら奇異な所作を行う、そんな方はいらっしゃらないでしょうか?
もしいらっしゃらないのでしたら、インターネットの世界を少し散歩してみてください。書店で、音楽雑誌を捲ってみるのもいいでしょう
SNSでは、明けても暮れても、文法が破綻していたりする狂気的な文章が星の数ほど呟かれていますし、音楽雑誌に「独特の世界観」なんて煽り文句が乗らない日はありません
極めて正常な人間がファッショナブルに異常性、「狂気」を用いる。「ファッション狂気」とでも名付けるべきこの風潮は、我々の生きる現代日本社会に確実に存在しているのです
まあ、僕は正常な人間ですが

ただし、ボクは決してこの風潮が悪いと言っているわけではありません。それどころか、良い風潮なのではないかとさえ思っています
僕は正常な人間なのですが、「狂気」というのは、万人が簡単に纏うことができます
「運動は得意ではない」、「頭も悪い」、「これといった特技なんてない」
そんな人間でも、ちょっと「狂気」を纏うことで「他人と違う自分」というものを手に入れることができます

「他人と違う」ということは自信になり得るし、生きる理由にもなり得る
それをごくごく容易に手に入れることのできる「狂気」は、自殺だ、新型鬱だ、などと騒がれている現代において、手軽な清涼剤として機能する可能性も大いにあるのではないか
そのように、ワタシには感じられるのです
もちろん、僕はこれ以上ないくらい正常な人間です

しかしながら、冒頭でも述べたように「狂気」というのは劇薬です。それはなにも文芸に限った話ではなく、個性においても同様のことが言えます
あまりにも多くの「狂気」を纏い過ぎる、「ファッション狂気」の度が過ぎると、他人から精神病の一種、つまりは本当に「狂人」だと認識されてしまうかもしれません
一旦他人に「狂人」の烙印を押されてしまったが最後、「私は正常だ」などという訴えはなんの効力も及ぼさないでしょう。むしろ、「狂人」の要素を強める方向に作用してしまうかもしれませんね
必要のない治療を受け、健康な身体には有毒でしかない薬を投与され、いつしか本当の「狂人」と化してしまう。。。
それはそうと、僕は正常な人間です

もしかすると、そんなことが起こり得るかもしれません、おそろしや、おそろしや
僕は正常な人間ですよ?もちろん

そんな訳で、「ファッション狂気」で個性を得るのもほどほどに
僕は正常な人間でした

そう、僕は正常な人間です
そして僕も正常な人間なんです
だから僕は正常な人間というわけです

要するに、僕は正常な人間ということです


熱帯夜のビール

このところ暑すぎるのよ。アスファルトの上を歩けば、日焼けサロンにでも来たかのような暑さ。ちなみに日焼けサロンには行ったことがないんだけど。

うだるような暑さ。茹で上がりそうなこれはもはや熱さ。

熱帯夜に一夏の恋なんて、私は信じられないですね。そんなの、茹で上がるどころか焼き上がって果ては子持ちししゃもとしてあなたの食卓へと参りそう。

だいたい一夏の恋なんて美化するけど、一夜の過ちと申しますようにそれは過ちなのよね。

ホテルの冷たいシーツの上で若い男と汗だくで夢中になって重なり合って貪り合ってシャワーも浴びずに腕枕、なんて美化するけどさ。所詮は過ち。

そもそも、なんで夏だけなのよ。秋だっていいじゃない、紅葉の下でおむすび食べたい。冬だっていいじゃない、お揃いのマフラー買いに行きたい。恋ならば。

でも世間ではきっと、恋心なんてなくったってラヴなのね。


そう愚痴を溢してビールを喉に流し込むのが私らしい夏かな。女の子らしいでしょ、水玉桃子と申します。二度目ましてでした。



純文学が生き残るためには?

少し前に、思想家の東浩紀さんと芥川賞作家の平野啓一郎の対談記事を読んだ。以前、「新潮」に掲載されたものらしい。
【特別対談】情報革命期の純文学/東 浩紀+平野啓一郎

僕は東さんの『動物化するポストモダン』を読んで以降おもしろい人だなあと印象を抱いていて。他の著作は読んだことがないけれど、Twitterはフォローして現代社会に対する意見をウォッチしている(他の著作も読もうとは思っている)。

 「純文学」と「エンタメ小説」の区分について興味があってググってみた結果この記事を見つけたわけだが、期待を裏切らずに面白い内容だった。純文学とエンタメ小説って純文学の方がきっと高尚なんだろうけど、「高尚」なことに果たしてどれほどの意味があるのだろうかという内容だった(ように思う)。

 文学を学ぶ身としては純文学に頑張ってほしいなあと思っていたんだけれど、これを読むと純文学はもう駄目なんじゃないかと言う気がした。というのも、純文学が復興するためには、純文学であることを捨てなければならないからだ。純文学には様々な定義があると思うんだけど、その定義のどれかを脱ぎ捨てなければ、中々純文学を多くの人に読ませようとするのは難しい。

 東さんは、純文学作家の定義を「小説を書くことに対して自覚的である」ことだと対談の中で言っている。僕はこの意見に基本的には賛成で、「自覚的である」ということは「偉そうである」という風に換言することができるかと思う。俺は文学のことが分かるんだ!という精神。

 そういう精神は、きっともう機能しないのだろうと思う。エンタメ小説が流布しているのは、分かりやすいからだ。そこには偉そうな態度はない。衒学的な雰囲気を持つ作品もあるけれど(森見登美彦氏、万城目学氏はそれが顕著であるように思う)、分かりやすく伝えようとしている。純文学は、勝手に読み取ってどうぞ、という感じがする。そういうのは、もう「流行らない」のではないだろうか。

 純文学作品は往々にしてドラマチックではない。もしかすると、ドラマチックでないことも純文学の定義とすることができるかもしれない。この劇的でない中で、如何に読ませるのか。ここに純文学復興の問題は収束するのでは無いだろうか(劇的である純文学は、それはもう純文学では無いような気がする)。予定調和的なものを排していけば、すなわち純文学作品となるのならば、その中でどう発展していけば良いのだろうか。

 「分かる人には分かる」の世界でも悪くはないのかもしれない。きっと、絵画やクラシック音楽の世界というのは、そういう世界で生きている。しかし、僕はそれでは悔しいなあと思う。

 「メディアミックス」というのは一つのきっかけになると思う。集英社文庫が漫画家に純文学作品の表紙を描かせていたけれど、あれは良い試みだと思った。純文学も、もっとポップなものと結びついていけば未来があるのではないだろうか?

 その具体例は……まあ、おいおい考えるということで!!