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無間書房

血潮吹く感傷と100万回死ぬ言葉。 無間書房は、火の国熊本発の文芸同人サークルです。

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純文学が生き残るためには?

少し前に、思想家の東浩紀さんと芥川賞作家の平野啓一郎の対談記事を読んだ。以前、「新潮」に掲載されたものらしい。
【特別対談】情報革命期の純文学/東 浩紀+平野啓一郎

僕は東さんの『動物化するポストモダン』を読んで以降おもしろい人だなあと印象を抱いていて。他の著作は読んだことがないけれど、Twitterはフォローして現代社会に対する意見をウォッチしている(他の著作も読もうとは思っている)。

 「純文学」と「エンタメ小説」の区分について興味があってググってみた結果この記事を見つけたわけだが、期待を裏切らずに面白い内容だった。純文学とエンタメ小説って純文学の方がきっと高尚なんだろうけど、「高尚」なことに果たしてどれほどの意味があるのだろうかという内容だった(ように思う)。

 文学を学ぶ身としては純文学に頑張ってほしいなあと思っていたんだけれど、これを読むと純文学はもう駄目なんじゃないかと言う気がした。というのも、純文学が復興するためには、純文学であることを捨てなければならないからだ。純文学には様々な定義があると思うんだけど、その定義のどれかを脱ぎ捨てなければ、中々純文学を多くの人に読ませようとするのは難しい。

 東さんは、純文学作家の定義を「小説を書くことに対して自覚的である」ことだと対談の中で言っている。僕はこの意見に基本的には賛成で、「自覚的である」ということは「偉そうである」という風に換言することができるかと思う。俺は文学のことが分かるんだ!という精神。

 そういう精神は、きっともう機能しないのだろうと思う。エンタメ小説が流布しているのは、分かりやすいからだ。そこには偉そうな態度はない。衒学的な雰囲気を持つ作品もあるけれど(森見登美彦氏、万城目学氏はそれが顕著であるように思う)、分かりやすく伝えようとしている。純文学は、勝手に読み取ってどうぞ、という感じがする。そういうのは、もう「流行らない」のではないだろうか。

 純文学作品は往々にしてドラマチックではない。もしかすると、ドラマチックでないことも純文学の定義とすることができるかもしれない。この劇的でない中で、如何に読ませるのか。ここに純文学復興の問題は収束するのでは無いだろうか(劇的である純文学は、それはもう純文学では無いような気がする)。予定調和的なものを排していけば、すなわち純文学作品となるのならば、その中でどう発展していけば良いのだろうか。

 「分かる人には分かる」の世界でも悪くはないのかもしれない。きっと、絵画やクラシック音楽の世界というのは、そういう世界で生きている。しかし、僕はそれでは悔しいなあと思う。

 「メディアミックス」というのは一つのきっかけになると思う。集英社文庫が漫画家に純文学作品の表紙を描かせていたけれど、あれは良い試みだと思った。純文学も、もっとポップなものと結びついていけば未来があるのではないだろうか?

 その具体例は……まあ、おいおい考えるということで!!
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