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こんにちは、篠原です!
昨日12月23日の夜、小説同人にとっての一大イベントである文学フリマに、ある変化が……。なんと、文学フリマ福岡が決定!
無間書房は熊本発の文芸同人サークルゆえ、大阪や東京への遠征は資金面的になかなか厳しいものがありました。
そこへ、待望の文フリ九州開催! ひのくに号で行きます。旅費4000円かかりません。やったー。
実は僕、この発表がある前にこんなツイートをしていました。誤字がありますが、気にしないでください…お恥ずかしい……。
すると、文フリ事務局からこんなリプライが。文フリinなごや、知りませんでした。2006年というと僕がまだ中学生になったばかりの頃。この頃はまさか同人サークル作って自分の冊子をイベントに持ち込もうなんて考えたこともありませんでした。そうか、大阪の前にもこんな試みがあったんですね。
で、僕はすかさずこう返しました。
この後、事務局さんからのリプライは途絶えます。まあそんなもんかなあと思っていたところ、昨日突然こんなリプライが。何のことやらと眺めていたら、メールを受信。文学フリマ事務局から。開けてみると、なんとそこには「文学フリマ福岡開催」の文字が!
しかも、それだけではなく「文学フリマ百都市構想」まで公開されちゃっています。ということは、無間書房が拠点としている熊本でも開催される可能性が大きくということじゃないですか! 主宰者側に回って開催することも可能です。
これはかなり夢が広がります。漫画やイラストを中心にやっている同人サークルは、全国に発表の場がたくさんあります。しかし、小説同人となるとなかなか発表の場が少ないのが現状です。
ところが、来年は文フリだけで5回も開催! この流れに乗って、他のイベントもできるかもしれません。
無間書房は、文学フリマ福岡に参加しようと思います(他の同人にはまだ一切相談しておりませんが)。就職やなんやらで熊本から離れて行く人もいるのですが、必ずや福岡に行きます。僕はあと一年間は熊本から抜け出せないのです! 僕だけでも行きます! 這ってでも行きます!!
大変夢が広がるニュースでした。文学フリマからのクリスマスプレゼントですね。
来年の10月、文学フリマ福岡に行かれる皆様は、ぜひ無間書房スペースにお越しください。
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無間書房ラヂヲ第七回で、「篠原歩文学講座」第一回を行いました。聴きに来て下さった皆さん、ありがとうございました!
第一回では太宰治を取り扱ったわけなのですが、そこで太宰のおすすめ作品などを紹介していたところ、まとめ的なものを作ってほしいというご要望をいただいたので、書いておこうかと思います。
作品名は赤字で示しましたので、とりあえず作品だけ知りたいという方は、それを追っていただければ。
まず、太宰を全く読んだことが無い人は「人間失格」を読まないとお話になりません。
しかし、逆に言えば「人間失格」さえ読んでおけば、太宰を読んだのだとある程度はドヤ顔することができます。文学を専攻していない方や文芸に興味の無い方は、これだけ読んでおけば十分でしょう。
もう少し太宰の作品を読んでみたいという方にお勧めしたいのは、中長編では「斜陽」「女生徒」。どちらの作品も女性独白体で書かれているのが特徴です。太宰の女性語りってそれだけで研究テーマになるくらい作品数が多くて、短編でお勧めなら「葉桜と魔笛」「皮膚と心」「恥」「饗応夫人」が短いし読みやすい。ちなみに、僕は「葉桜と魔笛」が一番好きな作品です。
「人間失格」の暗いイメージを払拭させてくれるのは、何と言っても「お伽草紙」。
ページを繰る手が止まりません。本当です。「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」の四編で構成されており、エンタメ小説が好きな人はここから読んだほうが良いかも。
あと、「黄村先生言行録」シリーズが滑稽。シリーズの他の作品は、「花吹雪」「不審庵」
僕が太宰っぽいなあと思いながらも、なおかつ読みやすい作品としてはまず「I can speak」「あさましきもの」を挙げます。この二編は、何と言っても短い。「あさましきもの」は「人間失格」の中で語られるエピソードも入っているので、その部分と比べて読んでみるのも面白いです。
さて、太宰の処女短編集は『晩年』と言うのですが、これは彼が遺書のつもりで自己の経験を綴ったことに由来します。
ここに収められたもののなかでも読みやすいのは「列車」、まあまあ読みやすいかなと思ったのが芥川賞候補にもなった「逆行」です。
他の作品はちょっと読みづらいものが多いのですが、「葉」と「道化の華」辺りから取り掛かるのが良いんじゃないかと思います。『晩年』は新潮文庫で出ているのでそっち買っても良いとは思いますが、気合入れないと読み通せないかも。
あとは、僕が個人的に好きな作品を並べておきます。脱稿日順とかでは無いのでご注意を。
「駈込み訴え」
僕は別のところで「日本文学100選」というのを作っているのですが、そこでも上位にいます。風刺精神・翻案精神バリバリなのが良いです。
「おしゃれ童子」
太宰の自意識過剰なところが好きな人は絶対に好きな作品です。当時の服装についての知識があれば、もっと楽しく読めるのかも。
「風の便り」
手紙による二人の作家の応酬がとても力強く、色々なことを考えさせられる作品。特に、自分に言い訳をしてしまっている人におすすめ。
「乞食学生」
面白いです。滑稽、というべきでしょうか。「グッド・バイ」と同じような雰囲気のある作品。
「親友交歓」
課題研究で扱ったので、思い入れの深い作品。百姓の最後の一言が物語りに奥行きを与えています。
「千代女」
これも女性独白体小説です。物を書く人には特に読んでほしい作品。
「花火」
僕はたぶん、何とも言えない気持ちにさせる小説が好きなんだと思います。この作品もその類。
他にも色々あるのですが、あまり挙げすぎてもまとめとして失格かなと思いますので、ここでやめにしておきます。
ここまでに24作品挙げました。太宰は短編が多く、気軽にふっと読めそうな作品から取り掛かってみるのが良いかもしれません。
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140字小説というもの
無間書房では、ここ数日「140字小説」という新たな試みをしている。
140字小説というのは、文字通りTwitterの字数制限である140字以内で物語を書くことである。同じような試みはTwitter黎明期から存在するようで、僕もしばしばTLに流れてくる作品を目にしてきた。「#twinovel」というハッシュタグもあり、ここから様々な140字小説を読むことができる。
僕のフォロワーにもやっている人は結構いて、なんだか面白そうだなあと眺めていたのだけれど、ついぞ手を出すことが無かった。そんな僕が140字小説に可能性を見出したきっかけを与えてくれたのが、ほしおさなえさんの140字小説だ。
彼女はTwitterで140字小説を発表したり、現代美術家の大槻香奈さんとのコラボで「140字小説活版カード」を出したりしている。それまでの僕は、140字で小説を書くということを単なる遊び程度にしか考えていなかったけれど、ほしおさんの作品を読んでそのイメージが一変した。彼女の創り出す、詩的情緒溢れる物語世界に魅了されてしまったのだ。
140字小説の利点は恐らく、小説を書いても詩を書いても何も言われないところにあると思う。がっつりストーリーを構築しても良いし、ふわふわと抽象的・詩的な言葉を並べて読者に遊びの余地を持たせても良いだろう。そのどちらも、140字小説としては正しい手法なのだ。
「制限」の美学
いわずもがな、これは「制限付きの文学」に類するものである。和歌や俳句などは文字数を決めてその中で表現をする。漢詩だって五言や七言といった字数の決まりがあるだろう。これを欧米に拡張してみても、頭韻とか脚韻とか、様々な制限を見ることができる。
「制限」からは美学が生まれる。俳句という世界を見てみれば、十七文字の中でどれだけ豊な表現ができるのかということに主眼があることが分かるだろう。不要な言葉を削り、できるだけ多くのことを伝えようとする。また、言葉にはしていないものを相手に伝わるようにする努力も必要だろう。あるいは、読み手の想像の余地を残すことも大事かもしれない。その基本構造は、140字小説でも同じである。
制限付きの文学は、字数という外的制限がある為に、その世界を自ずから内へと拡張するほか無い。その為に140字小説は多層性を帯び、濃密なものへと仕上がっていく。これが1000字も2000字もあったら飽きちゃうけれど、140字だったらおいしく食べられる。そんな世界を創り上げることが140字小説の目標なんじゃないかなと僕は考える。
この文章を煮詰めていくという作業は、必ずや長い物語を書くことになったときにも役に立つことだろう。文章生成の瞬発力、またその文章を吟味する力が身に付く。無間書房同人も、140字小説を通して力をつけ、また新しい作品を皆様のもとにお届けできるように努力いたす所存でございます。
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最近、芥川について色々と調べている。演習の授業で「酒虫」についての同時代評を探しているのだけど、さっぱり見つからない。第四次「新思潮」一巻四号に掲載されていることは分かっているのだが、その後に誰も「酒虫」の感想を書いていやしない。「手巾」の感想ならたくさんあるのに……。演習の題材を決める前に、まずは資料がどのくらいあるかを確認してから始めることを文学徒の皆様にはお勧めします(先行研究もさっぱり見つからない)。
そんな風に芥川の同時代表を探していると、常に武者小路実篤の名前を目にする。白樺派の中心的人物である。白樺派や実篤・志賀なんかの名前は知っていても、どの時代に活躍していた人かちゃんと把握していなかったので、芥川と一緒に紹介欄などに載っているのを見て感動している。ある時代の共時的感覚、みたいなものをこれから身に付けていかないといけないのかもしれない。
実篤は僕の先輩が研究なさっていて、実篤作品の文学的価値が低く見られていることに対していつも憤っていらっしゃる。教科書的に言えば実篤は人道主義的な作品を書いたとされていて、どうやらそれがユートピア的・非現実的・理想主義的みたいな評価を受けるようだ。僕の周りには実篤を読んでいる人がいなかったし、僕も読まなかったので、そういうマイナスのイメージは無かった。けれど、自分が読んでみて感想なんかを探してみるとそういう意見も多いようだ。
僕が読んだのは短編集『馬鹿一』と、全集で読んだ「友情」と、あとは一本戯曲を読んだのみである。どの辺が人道主義的なのかなと僕は不思議で、もしかしたらこれは実篤が書いた人道主義的でないタイプの作品なのではないかと思ったりもした。しかし、よく考えてみると主人公にあたる人物が何やら奇怪な行動をしている。それは合理的では無いが、道徳的に見れば確かに間違っているということができない。これが人道主義的ということなのかと一人で合点がいった次第である。
というのが、『馬鹿一』の方の評価になる。「友情」が人道主義的だと言うのならば世の中の恋愛小説は全て人道主義的になるんじゃないかと思うんだけど、どうなんだろう。詳しい方がいらっしゃいましたら、教えていただけると嬉しいです。
さて、ここからは『馬鹿一』の方に絞って話を進めていきたいと思う。といっても、何故か購入したはずの文庫本が無いのでおぼろげな記憶を頼りに書き進めていきたい。
僕はこの『馬鹿一』は何かに似ているなと感じた。そしてさっきシャワーを浴びながら、「伊坂かあ」と分かって一人でニタニタしていた。そう、『馬鹿一』に出てくる主人公的人物は伊坂の書く人物に似ているのである。
『馬鹿一』の主人公は多くの場合「異端者」であるということができる。他の人が空気を読んでうまいこと世渡りをしているのに対して、主人公はいつでも自分の道徳を信じて生きている。主人公を語り手に設定しないで相対化し、批判の目線も設定しているのだからこれは十分読めるじゃないか、人道主義的だと言うのならばそれは勝手に主人公に感情移入しているからだろ、と声を大にしてもっと言いたいところなのだが、まあここでは省略する。
それで、この「異端者」というのは伊坂幸太郎作品にも多く登場する。『砂漠』の西嶋、『チルドレン』の陣内なんかがその代表例として挙げられるだろう。『オー!ファーザー』も個性的な父親が四人出てきて大変面白い作品なのだけれども、四人いるせいか個々人の道徳観念みたいなものがあまり表出していないように感じる。なので、西嶋と陣内を実篤作品の主人公との比較として出しておこうと思う。
西嶋と陣内がどこか似た人物であることは、伊坂幸太郎ファンであればある程度首肯されるのではないだろうか。僕はこの二人を、『馬鹿一』中の「異端者」的主人公と比較して見てみたい。
『馬鹿一』の主人公はあくまでも主人公として語られるのに対して、西嶋や陣内は脇役として登場する。語り手の冷静な視点からこの「異端者」たちが眺められるという点においては共通なのだが、その相対化視点はより強いものになっている。どちらの作品にも他の様々な個性的な人物が登場し、西嶋や陣内はその存在を薄められざるを得ない。大して、『馬鹿一』では主人公の動向に物語の中心があると考えられるし、他の登場人物はほとんどのっぺらぼうだ。
また、伊坂作品のストーリー性も特筆すべき事項だろう。彼の作品はミステリと呼ばれることが多く、大衆的・娯楽的な要素を多分に含んでいると考えられる。読者の主な関心はこの娯楽的な面に向けられると考えられ、西嶋や陣内の「異端者」的性格は、いわば物語に華を添える形で存在しているだけなのだ。
ここで『馬鹿一』に立ち返ってみると、『馬鹿一』ではその「異端者」的思想が物語の中心に据えられている。つまり、他に小説として魅力的な要素が無い(あるいは分かりづらい)ために、ただの理想を追っているだけの小説だと批判されるのかもしれない。
僕は実篤に関しては完全に門外漢なのでこれまでにどんな研究が蓄積されてきたのかほとんど知らない。知らない立場から言わせてもらえば、実篤研究は「そうだよ、理想主義的だよ」と開き直るか、「理想主義的ではない面を探して、実篤の多層的な読みを可能にしよう!」というどちらかから出発すると良いんじゃないだろうかと思う。
色々書いてみたけれど、実篤をほとんど読んだことのない僕にはいささか無理のある分析だったかもしれない。ただ、これから実篤⇔伊坂という評価軸をもって両人の作品に取り組んでいけるということは、僕にとって何かプラスになるかもしれない。実篤に関しては「おめでたき人」、伊坂に関しては『モダンタイムス』を読もうと考えている。
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例えば、クレヨンしんちゃんのネネちゃんやそのママならば、うさぎの人形を殴る。僕ならばキンキンに冷えた発泡酒を一気に半分くらいあおり、残りはちびちびと飲む。誰にでもストレス解消の方法というのはあるものだ。
この作品の主人公が行うストレス解消法は「ホチキスを空打ちすること」である。女子高生に自転車でぶつかられたらホチキスを打ち、パート先で嫌な客がいたらまた打ち、広がって歩く中学生に、レジでポイントカードが探せない人に、何か気に食わないことがある度にパチンパチンと鳴らし続ける。
この行為が十余年も続いているというのだからまた驚きである。そのホチキスは12歳のときに友達のかなえちゃんちがやっている文房具屋で買ったものだが、そこで初めてホチキスを空打ちしたときの描写が印象深い。以下、その部分を引用する。
あの指をあれで挟んだら、血が出たりするのかな、やっぱり。想像していると無性に、指の付け根が疼いた。人の指なんて太すぎて、針、入らない気がする。(中略)私はそれを握り、かなえちゃんの中指に向けた。ぱちん。(「ホチキスの針」pp.11)
主人公は、かなえちゃんを意識しながら針を打つ。このとき、少しばかりかなえちゃんにイライラする事情があったからなのだが、問題は、針を打つことによってどのような感情を彼女が解決しているのかということである。
彼女は、加虐衝動ないしは破壊衝動とでも呼べるものをホチキスの空打ちでなんとか堪えている。イライラを引き起こす人を思い浮かべながら、それに向かってホチキスを打ち込んでいく感覚、それによって、本当に人を傷つけずに済む。
さて、ここで最も興味深いのは、この加虐衝動と表裏一体のものとして、自虐衝動が見え隠れしているということだ。だから、12歳の主人公は「想像していると無性に、指の付け根が疼」く感覚を持つのだ。
そのことは、この作品の終末にもキチンと描かれている。グラスもきちんと洗えない、いつも夜遅くにしか帰ってこない夫の味噌汁にホチキスを放つ。そして主人公はその味噌汁を、もちろん針もろとも、全て飲み込んでしまう。ここに加虐と自虐の統合を認めるべきではないだろうか?
自虐というのが加虐の対象表現として適当でないというのならば、「自傷」と言い換えてもいい。自傷行為――例えばリストカットをする少女は自分の身体を傷つけるためにのみその行為を繰り返すのだろうか? 無論、そうではない。その傷跡をチラリと見せたり、仰々しく包帯や絆創膏で隠すことが表層的/深層的とにかかわらず意識されているのではないだろうか?
●参考
河上真冬「ホチキスの針」『待兼山文学 第二号』pp.7~14,待兼山文学会
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