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無間書房

血潮吹く感傷と100万回死ぬ言葉。 無間書房は、火の国熊本発の文芸同人サークルです。

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「自慰行為」と「小説を書くこと」は似ている

「君の小説は自慰行為だね」という言葉を何度か耳にしたことがあります。
「君の小説は自分の快楽の為に書いていて、読者を意識してないよね」くらいの意味なんですけど、大袈裟に言う為に「自慰行為」という表現を使ったものです。だいたい他人を攻撃するときに使います。

よく「神は死んだ」とか「文学は死んだ」とか言いますけど、この「死んだ」というのと似たタイプの比喩表現です。

「君の小説は自慰行為」というのは、「自慰行為を見せるのは恥ずかしい」という前提で使われていると感じます。これを言われたら、僕はめちゃくちゃ怒ります。だって、僕は自分の自慰行為を他人に見せるような人間ではないから。

でも、よく考えてみると、「自慰行為」と「小説を書くこと」(あるいは「小説」)は、どこまでいっても似ているのではないかと考えるようになりました。

というわけで今回は、「自慰行為」と「小説を書くこと」について書いていきたいと思います。

「自慰行為」も「小説を書くこと」も快感である

「自慰行為」に快感が伴うことは、書かなくても皆さんご存知のことでしょう。

「小説を書くこと」も、基本的には自己満足から出発する人が多いと考えています。書いているときって楽しいですからね。

この前提が崩れてしまうと怖いのですが、少なくとも僕は「小説を書くこと」に快感を覚えています。

基本的に「自慰行為」は他人に見せない

純文学、特に私小説的なものは自慰行為だと言われても仕方ないように思うので、考えなければならないのは、「いかにして自慰行為的な小説を書かないようにするか」ではなく、「いかにして小説を価値のある自慰行為にするか」ということなのではないかと思います。

(もうすでに論点がすり替わっているような気がするのですが、面白いので続けます。)

まず前提として、僕は他人に自慰行為を見せることはありません。それは恥ずかしい行為だと知っているからです。また、僕の自慰行為を見せたところで誰も喜ばないし、むしろ不快感を与えるだけだろうと予想しているからです。

「自慰行為」を他人に見せる人たち

しかし、世の中にはネット上で自慰行為を配信している人達がいます。いわゆる、ライブチャットというやつ場所で。
そこでは、日夜自慰行為が配信され続けています。そして、それを見ている人もたくさんいる。

女の子の自慰行為だから見るのだという意見もあると思いますが、例えばお腹がぶよぶよの女性の自慰行為はあまり見たくない(そういうのが好きな人がいるかもしれないけれど)。

また、筋骨隆々の男性の自慰行為だったら、女性は見たいと思うかもしれない。少なくとも、お腹ぶよぶよの僕の自慰行為よりはマシなはずです。

だから、自慰行為に価値が生まれることは十分にあり得るんですよね。

「小説を書く」も「自慰行為」も恥ずかしい

小説を書くというのは、結構恥ずかしい行為だと僕は思っています。

無間書房同人の今田習作先生(巻き込んでごめんなさい)も、「小説を他人に読ませるのは、自分の価値観や性癖を他人に見せるようで恥ずかしい」という旨のことを言っていました。

特に私小説系の作品は「感傷の吐露」というべきものが重要になってくるわけですけど、これを見せるのが一番恥ずかしいと考えています。

ネットでなら見せられる、ということ

僕がまだ中学生だった頃。周りには小説を書く人などおらず、ネット上だけで小説を公開していました。

サッカーや野球をやっていれば、友達に「サッカー(野球)やってるんだ!」と言うことができますが、僕は「小説を書いているんだ!」ということができませんでした。理由は、恥ずかしかったからです。

同じく中学生だった頃、僕は書き溜めていた小説ノートをクラスメイトに見られたことがあるのですが、その時とても恥ずかしい思いをしたことをよく覚えています。

でも、ネットでは平気で公開することができたんです。それは、ネットだと相手の顔が分からないし、相手にも僕の顔が分からないから。

ライブチャットも同じですよね。相手の顔も自分の顔も分からないから、自慰行為を見せることができる。

プロの小説家は顔を公開している人が多いじゃないか!という意見が聞こえてきそうですが、自慰行為あるいは「本番」を見せるセクシー女優が顔を出してお金を貰っていることを考えると、やっぱり似ているのかなと思います。(ただ、この辺を厳密に考えると、「自慰行為」は「小説を書くこと」よりも恥ずかしいのかなと思います)。

「自慰行為」に価値を

では、自慰行為に価値を持たせるためにはどうしたら良いのでしょうか。

もちろん、先天的なものも関係してきます。顔が可愛くてスタイルも良い人の自慰行為は、何もしなくても価値が生まれる。何もしない方が価値があるくらいです。

小説に当てはめてみると、ただ感傷を吐露しているだけで価値が生まれる、ということになるでしょうか。何も考えなくても、誰かの心に響くものが書けてしまうのです。

でも、世の中にはそういう人ばかりではありません。努力をして自慰行為に価値を持たせている人もいる。髪型や下着に気をつかったり、コスプレしたり、放送ギリギリの行為をしたり、工夫の方法は色々とあるでしょう。

小説でもやり方は色々とあって、単なる「自慰行為」をいかに価値のあるものにするのか、というのが勝負なわけです。

誰にも見せないのならば、勝手に自慰行為をしていれば誰にも文句は言われません。ただ、さっきも触れたように誰かに見られたらとても恥ずかしいです。

しかし、小説を書いている人の中には、自尊心を満たすために数人でも良いから読んでほしいという願望を抱くようになる人もいます。だから、上でも触れたようにネットで公開という道をとるわけです。

「自慰行為」でも「小説を書く」でも、ネットに公開してみれば、何らかの方法で数人の目には触れます。コメントを残してくれる人もいるかもしれません。

そしてそれだけでは飽き足らず、たくさんの人に来てもらって自尊心を満たそうと思えば、「自慰行為」に価値がなくてはならないでしょう。
また、人がたくさん来てくれれば、お金も稼げるようになるかもしれませんね。

価値を生む手段として、ニッチな層を狙う人がいてもいいし、メジャーな路線を狙う人がいても良い。
小説だと、アングラ的なもの書けばファンは付きにくいかもしれませんが、熱狂的なファンが付きやすいでしょう。いわゆる「売れる」小説を書けば、ライトな読者がたくさんついてくれることでしょう(熱狂的なファンも中にはいると思います)。

いずれにしても、先天的なものを活かすか、何か努力をしなければ人気は出ないわけです。

まとめ

というわけで、僕が考える「自慰行為」と「小説を書くこと」の共通点は以下のようになります。

・その行為自体が快感である
・他人に見られるのは恥ずかしい
・自尊心を満たす為に公開することがある(特にネット上で)
・より自尊心を満たす、お金を稼ぐ為には、価値のある必要がある。

とりとめもなくなってしまいましたが、以上です。

これを書いているうちに、自慰行為と小説を書くことは本当に似ているなと感じるようになってしまいました。

ただ、当たり前の事ですが、「自慰行為」と「小説を書くこと」は全く違う行為です。僕は似ている部分を意図的に抽出しましたが、違うところを指摘しようと思えばいくらでもできると思います。だから、恥ずかしがらずに小説をバンバン書いて公開して大丈夫だと思います。

僕も、良い小説が書けるように頑張ります。


篠原歩(あとーす)→@ATOHSaaa




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