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無間書房

血潮吹く感傷と100万回死ぬ言葉。 無間書房は、火の国熊本発の文芸同人サークルです。

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サイトを移転しました

サイトを移転いたしました。

新サイトのURLは以下の通りです。
http://mugenshobo.com

ブログも上記のサイトにて更新していく予定です。
今後とも、無間書房をよろしくお願いいたします。
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『Lapislazuli 紫熊号』新人号を読んで

文芸サークルセピア『Lapislazuli 紫熊号』の新人号を読みました。今回は二冊構成で、一年生と上級生に分かれて執筆をしたのだそうです。
同人の多くはセピア出身ということもあり、せっかく全部読んだので感想を書かせていただこうかなと思っておりますので、気になる方はお付き合いください。

作品個別の感想を書いてから、全体の感想を書いていこうかなと思います。
内容面にも触れていきますので、まだ作品を読んでないという方は、ぜひ読んでからこの記事を読んでもらえれば。

中尾正太郎「瓦解者」

一人の男が「瓦解」に向かっていく様を描いた作品。改行が多く、詩的リズムも感じられます。

人間は誰しも「気持ち悪い行動」をとりたいという衝動に駆られる瞬間があると思います。例えば僕は最近、川を見ると手に持っているスマホをそこに投げ入れたいという衝動に駆られることがあります。また、高校時代は水泳の授業中に「ここで水を鼻から吸い込んだらどうなるんだろう?」という疑問が頭の中から離れなくなったことがあります。

それらの行動を実際にするのは「頭のおかしい」ことだと僕らはわかっているし、それを実行に移すことはありません。しかし、この主人公はその「頭のおかしいこと」を実際にやってのけてしまうのです。

主人公の犯す「頭のおかしい」ことは、彼の性的嗜好に直結しています。若い教師の困った姿を見たいだとか、前の席に座った可愛い女の子の髪を引っ張りたいだとか。物語は、そういった性的嗜好を抑える場面を描写することで進んでいくのですが、最後でそれが爆発してしまいます。

変態的な性的嗜好について深い洞察を与えようとする作品が僕は個人的にとても好きなのですが、一番良いなと思ったのはこの場面。
「うっ、うう」
――やあこれはこれは有難う。
「うっ」
ーープリントを回してくれたのかい。
「ひゅっ」
ーーきみ、何学部の学生。
「あああ」
ーー今度ゆっくり、どこかへ。
 心の中では、きちんと話せた。

『Lapislazuli 紫熊号』新人号 より

僕は、小説の中の主人公をヒーローにしてしまいがちです。それがどんな人間であろうとも、「深く考える一人称主体」としてその人物を捉えるとき、それが物語世界で最も上位にいると錯覚してしまうのです。

しかし、「瓦解者」では突如としてこの「コミュ症」とか「キモオタ」とでも名付けられそうな主人公の外面を描くことによって、主人公を一気に相対化し、下位に引きずり下ろすことに成功しているように思います。(これを「成功」と呼ぶのかどうかは、個々人によるのでしょうが…)。

ラストシーン、猫に自分を転化するのも世界観にマッチしていて良かったと思います。僕はあまり読んでいないのですが、筒井康隆や安部公房を思い出しました。


唯一欠点を挙げるとすれば、単語の使い方のぶれでしょうか。
主人公は「キモオタ的」だけれど、内面はなんというか海外文学にかぶれているような感じがします。その雰囲気を全体的に出しつつ、現代っぽさも演出しているのに、どうしてか突如として投げやりになっているような単語選びが感じられました。とはいえ、大した欠点ではないように思います。

苛屋「こだま」

並んで立つ二本のイチョウのお話。童話っぽい。英語の教科書で読んだ「葉っぱのフレディ」を思い出しました。

「主人公が人間以外」の物語というのは、人間として生きている僕らにとっては非常に新鮮なものです。しかし、上に挙げた「葉っぱのフレディ」をはじめとして様々な「主人公が人間以外」の物語があるので、そことどう差別化(というのが適当かは分かりませんが)していく必要があると思います。

さて、この物語の感動ポイントを勝手に探したのですが、「ギンナンは踏まれ、葉っぱは散って悲しい」「桜への妬み」「憂鬱な秋に寂しそうに呼ばれた(ような気がした)」というあたりでしょうか。

作中では「秋の季節は憂鬱である」と二回繰り返された後で「秋が終わるのだ」と独白が続き、最後の一文は「秋の声が、寂しそうに私を呼んだ気がした」と綴られます。この辺りの描写は、非常に綺麗でいいじゃありませんか。

ところで、僕にはこのイチョウの桜に対する妬みは筋違いであるように思われます。イチョウは、葉っぱが散る――死ぬ――姿を見て「憂鬱」だと言い、いずれ綺麗に咲き誇る桜を見て「憂鬱」だと言います。

しかし、桜も花を散らすのだし、秋は地味な葉っぱを付けているだけの桜からしてみれば、鮮やかな黄色に染まるイチョウの気は羨望(あるいは妬み)の対象であるはずなのです。作者が意図しているのかどうかはわかりませんが、イチョウたちはその点に気づいていません。これで「秋の声」に「寂しく呼」ばれたような気がしたなんて、お前は何を言っているんだ目を覚ませというところなのです。

というところに気づくまでを作品に取り入れても良いなと思ったのですが、そんな無批判なイチョウたちを描いて「秋の声が、寂しそうに私を呼んだ気がした」の方が数倍も奥行があって良いなあと考え直しました。

ただ、童話チックな話が好きな人であればこの作品も大好きなのですが、もっとドロドロした話が好きな僕としては、「童話チック」という枠の中でもう少し踏み込んだものを書くと、「お、あっちの畑にすげえものが生ってるぞ!!」となるかなあとも思いました。ぜひ、「木」を主人公にしてもう一本。

そういえば、「こだま」というタイトルに注目するのを忘れていたのですが、まあ頑張ってここまで書いたので他の方の批評にお任せしたいと思います…(ごめんなさい)。

ツチノコ「スリーピング・ラバーズ」

無間書房ブログなので少し過激なことを書くかもしれないのですが、この作品は非常に面白く読めたので、そのことを念頭に置きながら読んでいただけると幸いです。

この作品を読みながら、「ソフレ? 付き合ってるのにソフレなの? こいつらたぶんキスもまだだよね? それでソフレ? ソフレなの???」と考えていました。

人物の作り方は、非常にラノベ的だなと思いました(この間、四話まで見たアニメ版禁書目録を思い出しながら)。正義感は強そうだけれどちょっと気だるげな主人公。終始ぴょんぴょんしてて可愛い彼女。先入観強すぎてイメージを増幅させているような気がしなくもないのですが、だいたいこんなイメージで読みました。

エロ同人とかなら「眠る日」を楽しんでいるのにいつの間にか…みたいな展開になるのですが、その辺りは節度が守られていて非常に良いなと思いました。まあ、個人的な趣味としてはソフレ脱出の方に進むのも良いと思うのですが、この二人とこの文体だと、エロ同人への道を突き進むことになりそうなので、このままがベストだと思います。

なんか『陽だまりの彼女』とかを読んでいるようで、僕は街中でこのいちゃつき方をしているカップルを見つけたら端から火をつけて回りたい感じなのですが、とりあえず幸来ちゃんかわいいのでお嫁にください。

中尾章太郎「熱」

また中尾くんかよ!!!!! と思いながら読みました。

二作読んで思うのですが、中尾くんは人間の内側と外側を書きわけるのがうまいし、そういう点を強く意識しているんじゃないでしょうか。

殺人の犯人に夢の中で乗り移ってしまうという設定は非常に面白かったです。

同じ人の作品を二作も連続で批評するのは少し疲れるので、あと少しだけ。
中尾くんは文章も非常にうまいと思うし、話の設定も面白いのだけど、話の設定にどこか「借り物感」があるように思います。もちろん世の中には似ている作品というものが多数存在しているので、「あの作品に似てる!」ということは小説読んでてたくさん起こります。しかし、やはりこの作品はどこか「借り物である」と感じました。うまく言語化できなくてごめんなさい…。

しかし、中尾くんはこのまま文章を書き続ければ、どんどん成長していくのだろうと思います。非常に多作なようですが、一作に時間をかけてみても良いのかも? スタイルはそれぞれなので口出しするようなことでもありませんが。とにかく、これからの作品に期待しております!

抜梅縛賤「月の女」

浅学ゆえに名前の読み方が全然わからないので、今度会ったら教えてください。

すごく単純化すると、人格者の才女が、いじめにあうことで厨二的人格を発現してしまう話です。あと、確実にグロテスク枠。これだけ血だらけになって帰って、家の人はどう思っているのだろうかといらぬ心配をしてしまいました。

ジョギングをしているシーンからいきなり非日常的な空間に移る描写も良いし、彼女が叫ぶ言葉も非常によく作りこまれているなと思いました。

ただ、個人的な感想としては、もう少し「正常」な朔夜の描写があれば良かったかなと思うところです。「異常」な朔夜こそがこの作品の描きたかったものだと思うので、そこを作り込むのはもちろん正解だし、その試みはとても成功しているでしょう。

ただ、「異常」は「正常」との相対的な距離によって、よりその「異常」性が際立つのではないかと思います。朔夜が「異常」であるということは描写からよくわかるけれど、朔夜の「正常」な人格者かつ才女という面は、ただ「情報」としてしか読者に与えられていません。その「正常」を描写し、そこにどんな仕打ちが施されて「異常」になったのか。そのプロセスを描くことも重要であるような気もします。

東雲スバル「散逸」

「博士の愛した数式じゃん!」「掟上今日子の備忘録じゃん!」「とある魔術の禁書目録じゃん!(再登場)」という意見が出てきそうだな、というか僕がそう思ったのですが、作者がその作品を知っていたか知っていなかったかは別として、それとどう差別化されているのかというのが大事なので、強く生きましょう(自分の作品が○○に似てると言われたときのことを思い出しながら)。

で、そういう前提で読んだときに、この設定で書くのはとても大変だよなと思いました。僕らは、前日の記憶がないなんてことを経験したことがないので、整合性を楽しむのがとても難しそうです(まあ、誰も経験したことがないので整合性に対していくらでも言い訳できる、という考え方もできそうですが)。

まあ、「記憶」に関すること以外は博士も掟上も禁書目録も全然関係ない仕上がりになっているし、二人の関係は普通に綺麗に描けているし、破綻もなさそうだし、うまくまとまっていると思います。また、筆力は十分なので、あとはどれだけうまく発想できるかが勝負だと思います。

那須川林助「メンタルオーバー」

とても長くてとても場面転換が多くてとても会話文が多かったのですが、それがこの作品のいいところだと思いました。ただ、ですます調にするとアクションシーンの臨場感が死んじゃうかもしれません。不気味な感じがして、これはこれで良かったですけども。

爆破できるならさっさと田中所長のことを爆破しろよと思わなくもなかったのですが、田中さんが田中所長の頭を握りつぶすシーンがないとこの物語のいいところを損ねてしまうなぐぬぬと思い、脳みそから触手が生えてくるってどういうことだよと思い、まあ他にも色々なことを思ったのですが、個人的には長い作品は最初に持っていてだけると良いなと思いました(あくまで個人的に)。

まとめ

最初は「やるぞー!」という感じで書き始めたのですが、最後の方は疲れてしまいました。ごめんなさい。文字数に如実に現れているような気がしますが、また何か思いついたときに元気だったら書き足すので許してください。

とにかく、後輩がこんな作品を書いているとなると、僕はもっともっと頑張らなければという気持ちになりました。あと、編集の仕方もとても良かったと思います。「いいはなし」と「グロテスク」がばらけていたと思います。お疲れ様です。

第一回文学フリマに出店しました

こんにちは、無間書房代表の篠原です。
Twitterの方では告知していたのですが、10/25に都久志会館で行われた第一回文学フリマ福岡に参加してきました。

今回は既刊のLAZURITE Vol.1と、やや新刊(?)のVol.2を持ち込みました。本当は新刊のvol.3も持ち込みたかったのですが、同人が色々と忙しかったこともあり、今回は見送りとなりました。

さて、今回はなんと持ち込んだ冊子すべてがはけてしまいました。合計40冊ほど持ち込んだので、びっくりです。絶対に余ると思ったのでVol.2を熊本に少し置いてきたことが悔やまれます。

Vol.1の方はすべてなくなってしましました。
1年前。調子こいて100部刷ったあの秋。10部しか売れなかった大阪文フリ。あの頃はまさか、100部の冊子がすべてはけるとは思いませんでした。感動です。

今回の文フリ福岡では、
①初見さんがたくさんブースに立ち寄ってくれた
②配置が島端だった
③2冊同時に購入してくれる方が多かった

というのが、良かったポイントかなあと思います。
ただ、グッズはあまり買っていただけなかったので、そこは少し残念。眼鏡拭き、とてもかわいかったのに…。


ところで。無間書房は通販をしているのですが、ご存じでしょうか。あまり宣伝をしていないので、まだ注文が来たことはないのですが…。

LAZURITE Vol.2もそこそこ余っていることですし、そろそろ本格的に通販を開始しようかなと思っています。

またTwitterなどで告知させていただこうと思いますので、よろしくお願いいたします。



「自慰行為」と「小説を書くこと」は似ている

「君の小説は自慰行為だね」という言葉を何度か耳にしたことがあります。
「君の小説は自分の快楽の為に書いていて、読者を意識してないよね」くらいの意味なんですけど、大袈裟に言う為に「自慰行為」という表現を使ったものです。だいたい他人を攻撃するときに使います。

よく「神は死んだ」とか「文学は死んだ」とか言いますけど、この「死んだ」というのと似たタイプの比喩表現です。

「君の小説は自慰行為」というのは、「自慰行為を見せるのは恥ずかしい」という前提で使われていると感じます。これを言われたら、僕はめちゃくちゃ怒ります。だって、僕は自分の自慰行為を他人に見せるような人間ではないから。

でも、よく考えてみると、「自慰行為」と「小説を書くこと」(あるいは「小説」)は、どこまでいっても似ているのではないかと考えるようになりました。

というわけで今回は、「自慰行為」と「小説を書くこと」について書いていきたいと思います。

「自慰行為」も「小説を書くこと」も快感である

「自慰行為」に快感が伴うことは、書かなくても皆さんご存知のことでしょう。

「小説を書くこと」も、基本的には自己満足から出発する人が多いと考えています。書いているときって楽しいですからね。

この前提が崩れてしまうと怖いのですが、少なくとも僕は「小説を書くこと」に快感を覚えています。

基本的に「自慰行為」は他人に見せない

純文学、特に私小説的なものは自慰行為だと言われても仕方ないように思うので、考えなければならないのは、「いかにして自慰行為的な小説を書かないようにするか」ではなく、「いかにして小説を価値のある自慰行為にするか」ということなのではないかと思います。

(もうすでに論点がすり替わっているような気がするのですが、面白いので続けます。)

まず前提として、僕は他人に自慰行為を見せることはありません。それは恥ずかしい行為だと知っているからです。また、僕の自慰行為を見せたところで誰も喜ばないし、むしろ不快感を与えるだけだろうと予想しているからです。

「自慰行為」を他人に見せる人たち

しかし、世の中にはネット上で自慰行為を配信している人達がいます。いわゆる、ライブチャットというやつ場所で。
そこでは、日夜自慰行為が配信され続けています。そして、それを見ている人もたくさんいる。

女の子の自慰行為だから見るのだという意見もあると思いますが、例えばお腹がぶよぶよの女性の自慰行為はあまり見たくない(そういうのが好きな人がいるかもしれないけれど)。

また、筋骨隆々の男性の自慰行為だったら、女性は見たいと思うかもしれない。少なくとも、お腹ぶよぶよの僕の自慰行為よりはマシなはずです。

だから、自慰行為に価値が生まれることは十分にあり得るんですよね。

「小説を書く」も「自慰行為」も恥ずかしい

小説を書くというのは、結構恥ずかしい行為だと僕は思っています。

無間書房同人の今田習作先生(巻き込んでごめんなさい)も、「小説を他人に読ませるのは、自分の価値観や性癖を他人に見せるようで恥ずかしい」という旨のことを言っていました。

特に私小説系の作品は「感傷の吐露」というべきものが重要になってくるわけですけど、これを見せるのが一番恥ずかしいと考えています。

ネットでなら見せられる、ということ

僕がまだ中学生だった頃。周りには小説を書く人などおらず、ネット上だけで小説を公開していました。

サッカーや野球をやっていれば、友達に「サッカー(野球)やってるんだ!」と言うことができますが、僕は「小説を書いているんだ!」ということができませんでした。理由は、恥ずかしかったからです。

同じく中学生だった頃、僕は書き溜めていた小説ノートをクラスメイトに見られたことがあるのですが、その時とても恥ずかしい思いをしたことをよく覚えています。

でも、ネットでは平気で公開することができたんです。それは、ネットだと相手の顔が分からないし、相手にも僕の顔が分からないから。

ライブチャットも同じですよね。相手の顔も自分の顔も分からないから、自慰行為を見せることができる。

プロの小説家は顔を公開している人が多いじゃないか!という意見が聞こえてきそうですが、自慰行為あるいは「本番」を見せるセクシー女優が顔を出してお金を貰っていることを考えると、やっぱり似ているのかなと思います。(ただ、この辺を厳密に考えると、「自慰行為」は「小説を書くこと」よりも恥ずかしいのかなと思います)。

「自慰行為」に価値を

では、自慰行為に価値を持たせるためにはどうしたら良いのでしょうか。

もちろん、先天的なものも関係してきます。顔が可愛くてスタイルも良い人の自慰行為は、何もしなくても価値が生まれる。何もしない方が価値があるくらいです。

小説に当てはめてみると、ただ感傷を吐露しているだけで価値が生まれる、ということになるでしょうか。何も考えなくても、誰かの心に響くものが書けてしまうのです。

でも、世の中にはそういう人ばかりではありません。努力をして自慰行為に価値を持たせている人もいる。髪型や下着に気をつかったり、コスプレしたり、放送ギリギリの行為をしたり、工夫の方法は色々とあるでしょう。

小説でもやり方は色々とあって、単なる「自慰行為」をいかに価値のあるものにするのか、というのが勝負なわけです。

誰にも見せないのならば、勝手に自慰行為をしていれば誰にも文句は言われません。ただ、さっきも触れたように誰かに見られたらとても恥ずかしいです。

しかし、小説を書いている人の中には、自尊心を満たすために数人でも良いから読んでほしいという願望を抱くようになる人もいます。だから、上でも触れたようにネットで公開という道をとるわけです。

「自慰行為」でも「小説を書く」でも、ネットに公開してみれば、何らかの方法で数人の目には触れます。コメントを残してくれる人もいるかもしれません。

そしてそれだけでは飽き足らず、たくさんの人に来てもらって自尊心を満たそうと思えば、「自慰行為」に価値がなくてはならないでしょう。
また、人がたくさん来てくれれば、お金も稼げるようになるかもしれませんね。

価値を生む手段として、ニッチな層を狙う人がいてもいいし、メジャーな路線を狙う人がいても良い。
小説だと、アングラ的なもの書けばファンは付きにくいかもしれませんが、熱狂的なファンが付きやすいでしょう。いわゆる「売れる」小説を書けば、ライトな読者がたくさんついてくれることでしょう(熱狂的なファンも中にはいると思います)。

いずれにしても、先天的なものを活かすか、何か努力をしなければ人気は出ないわけです。

まとめ

というわけで、僕が考える「自慰行為」と「小説を書くこと」の共通点は以下のようになります。

・その行為自体が快感である
・他人に見られるのは恥ずかしい
・自尊心を満たす為に公開することがある(特にネット上で)
・より自尊心を満たす、お金を稼ぐ為には、価値のある必要がある。

とりとめもなくなってしまいましたが、以上です。

これを書いているうちに、自慰行為と小説を書くことは本当に似ているなと感じるようになってしまいました。

ただ、当たり前の事ですが、「自慰行為」と「小説を書くこと」は全く違う行為です。僕は似ている部分を意図的に抽出しましたが、違うところを指摘しようと思えばいくらでもできると思います。だから、恥ずかしがらずに小説をバンバン書いて公開して大丈夫だと思います。

僕も、良い小説が書けるように頑張ります。


篠原歩(あとーす)→@ATOHSaaa





「純文学とは何だと思いますか?」に対する回答をまとめてみました(無間書房ラヂヲ)

こんにちは、篠原です。

先日無間書房のラヂヲで行った「無間書房とは何だと思いますか?」というテーマでの配信ですが、はじめての試みとしてアンケートを導入し、配信もそこそこ盛り上がりました。

これも皆さまがたくさん回答をしてくださったおかげです!ありがとうございます!!

さて、というわけで今回は、遅ればせながらいただいた内容をまとめてみたいと思います。
なかなか面白い回答が集まりました。


読者が、ある物語から愛を感じれば、それは純文学だと思います(さくや)

この回答もなかなかいいと思うのですが、99人が「これはライトノベルだ」といっても、一人が「これからは愛を感じる!」と言えば純文学ということになってしまい、なんだかなあという感じです。


あまり読まないからか固そうで近寄りがたい。
表紙が写真なのが多い印象。
なんとなくでてを出したら叱られそう。
作者が高学歴そう。(ライトな読者)

「固そう」という意見はもっと出てくるかと思ったのですが、意外と少なかったかも…?

写真が多いのはよくわかりません。もしかしたら多いかもしれません。

なんとなくで手を出しても怒られません。大丈夫です。

作者が高学歴かどうかについては、他のところでブログ書きましたので、是非読んでみてください!→純文学作家には高学歴の人が多いの?→芥川賞作家153人の学歴を調べてみた

意味深とみせかけて結局セクシャルな問題に還元するジャンル(ぼっちほっち)

セクシャルが全てではないと思いますけど、いわゆる「濡れ場」は多いかもしれませんね。

教養そのものと、他人の人生を体験できるもの

「教養そのもの」とは大きく出ましたね…。「他人の人生を体験」については、他のジャンルの小説でも良いのかもしれません。ただ、「私小説」との関係で、純文学はより体験する感じが強いのかも。

難解で抽象的、刹那的な人物が出てくる文学。(かの)

この回答おもしろかったですね。もう定義これでいいんじゃないかな(笑)

作者の知名度やメディアミックスに頼らず、本の内容のみで多くの世代から支持を得た作品。文章のみで上り詰めた作品。(饅頭)

「文章のみ」っていうところが面白かったです。言葉の芸術性に重きを置いているところはあるのかもしれません。

ホラー、ミステリー、サスペンス、アクション、パロディ、SF、ファンタジー、官能、冒険などいろんなジャンルがあるけれど、がっつりそれに当てはまらない。偏らない。血わき肉踊らない。…気がしています。(MaKI)

これは「エンタメ」にどういうジャンルがあるのかを列挙して、その反対が純文学だと言っているんですね。定義するときは、こういう考え方も大事だと思います。「血わき肉踊らない」は、僕ちょっと賛成できないですけどね(笑)

100年経っても生き残り愛され色褪せない作品。(なおと)

「純文学」という言葉が誕生してやっとこさ100年というところだと思うので、これが証明される日を待たなくてはなりませんね。

キャラクターや、構成を重視した小説ではなく、何か強い意志をその話に盛り込んだ小説、と思っています。(キジ)

「何か強い意志」は抽象的ですけれど、言いたいことはなんとなく分かります。
「構成を重視」しないというのは、まあそういう傾向はあるような気がしています。

純文学とは、一筋縄ではいかない精神を書き表していると思う。(治子)

心理的な面を描いているところが面白い、ということでしょうか。

言葉の蛇足を極限まで薄めたもの。(作家の卵の殻の欠片)

さっきも触れた「言葉の芸術性」みたいなところに結び付くものかもしれません。

僕の意見

放送の中でも述べましたが、一応ここにも僕の意見を書いておこうかと思います。

「純文学」と聞くと。何故か「古いもの」というようなイメージを持つ方が多いと思います。明治や大正の文豪を想起するからでしょうか。

しかし、現代にも純文学というものはあるわけで。

僕は、純文学は決して「古典」ではないと思います。音楽でいうところのクラシックと似たような位置で捉えられているような気がするんですけど、純文学はクラシック(古典)じゃない。

クラシックよりも、純文学はむしろパンクに近いのかなと思います。絵画でいうなら、前衛芸術。基本的に、アバンギャルドなものであるんじゃないかなあ、と。

だから理解されがたい→売れないということになるのではないでしょうか。

…みたいなことを、放送で喋ったような気がします。二週間も経つと忘れてしまいますね。

まとめ

こんな感じのことを、無間書房ラヂヲでは生放送で話しています。

文字にするよりも、皆さんの意見を聞きながら喋る方が100倍楽しいので、皆さま是非聴きにきてくださいね!