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無間書房

血潮吹く感傷と100万回死ぬ言葉。 無間書房は、火の国熊本発の文芸同人サークルです。

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実篤と伊坂――二人の描く「異端者」とその位置付け――

最近、芥川について色々と調べている。演習の授業で「酒虫」についての同時代評を探しているのだけど、さっぱり見つからない。第四次「新思潮」一巻四号に掲載されていることは分かっているのだが、その後に誰も「酒虫」の感想を書いていやしない。「手巾」の感想ならたくさんあるのに……。演習の題材を決める前に、まずは資料がどのくらいあるかを確認してから始めることを文学徒の皆様にはお勧めします(先行研究もさっぱり見つからない)。

そんな風に芥川の同時代表を探していると、常に武者小路実篤の名前を目にする。白樺派の中心的人物である。白樺派や実篤・志賀なんかの名前は知っていても、どの時代に活躍していた人かちゃんと把握していなかったので、芥川と一緒に紹介欄などに載っているのを見て感動している。ある時代の共時的感覚、みたいなものをこれから身に付けていかないといけないのかもしれない。

実篤は僕の先輩が研究なさっていて、実篤作品の文学的価値が低く見られていることに対していつも憤っていらっしゃる。教科書的に言えば実篤は人道主義的な作品を書いたとされていて、どうやらそれがユートピア的・非現実的・理想主義的みたいな評価を受けるようだ。僕の周りには実篤を読んでいる人がいなかったし、僕も読まなかったので、そういうマイナスのイメージは無かった。けれど、自分が読んでみて感想なんかを探してみるとそういう意見も多いようだ。

僕が読んだのは短編集『馬鹿一』と、全集で読んだ「友情」と、あとは一本戯曲を読んだのみである。どの辺が人道主義的なのかなと僕は不思議で、もしかしたらこれは実篤が書いた人道主義的でないタイプの作品なのではないかと思ったりもした。しかし、よく考えてみると主人公にあたる人物が何やら奇怪な行動をしている。それは合理的では無いが、道徳的に見れば確かに間違っているということができない。これが人道主義的ということなのかと一人で合点がいった次第である。

というのが、『馬鹿一』の方の評価になる。「友情」が人道主義的だと言うのならば世の中の恋愛小説は全て人道主義的になるんじゃないかと思うんだけど、どうなんだろう。詳しい方がいらっしゃいましたら、教えていただけると嬉しいです。

さて、ここからは『馬鹿一』の方に絞って話を進めていきたいと思う。といっても、何故か購入したはずの文庫本が無いのでおぼろげな記憶を頼りに書き進めていきたい。

僕はこの『馬鹿一』は何かに似ているなと感じた。そしてさっきシャワーを浴びながら、「伊坂かあ」と分かって一人でニタニタしていた。そう、『馬鹿一』に出てくる主人公的人物は伊坂の書く人物に似ているのである。

『馬鹿一』の主人公は多くの場合「異端者」であるということができる。他の人が空気を読んでうまいこと世渡りをしているのに対して、主人公はいつでも自分の道徳を信じて生きている。主人公を語り手に設定しないで相対化し、批判の目線も設定しているのだからこれは十分読めるじゃないか、人道主義的だと言うのならばそれは勝手に主人公に感情移入しているからだろ、と声を大にしてもっと言いたいところなのだが、まあここでは省略する。

それで、この「異端者」というのは伊坂幸太郎作品にも多く登場する。『砂漠』の西嶋、『チルドレン』の陣内なんかがその代表例として挙げられるだろう。『オー!ファーザー』も個性的な父親が四人出てきて大変面白い作品なのだけれども、四人いるせいか個々人の道徳観念みたいなものがあまり表出していないように感じる。なので、西嶋と陣内を実篤作品の主人公との比較として出しておこうと思う。

西嶋と陣内がどこか似た人物であることは、伊坂幸太郎ファンであればある程度首肯されるのではないだろうか。僕はこの二人を、『馬鹿一』中の「異端者」的主人公と比較して見てみたい。

『馬鹿一』の主人公はあくまでも主人公として語られるのに対して、西嶋や陣内は脇役として登場する。語り手の冷静な視点からこの「異端者」たちが眺められるという点においては共通なのだが、その相対化視点はより強いものになっている。どちらの作品にも他の様々な個性的な人物が登場し、西嶋や陣内はその存在を薄められざるを得ない。大して、『馬鹿一』では主人公の動向に物語の中心があると考えられるし、他の登場人物はほとんどのっぺらぼうだ。

また、伊坂作品のストーリー性も特筆すべき事項だろう。彼の作品はミステリと呼ばれることが多く、大衆的・娯楽的な要素を多分に含んでいると考えられる。読者の主な関心はこの娯楽的な面に向けられると考えられ、西嶋や陣内の「異端者」的性格は、いわば物語に華を添える形で存在しているだけなのだ。

ここで『馬鹿一』に立ち返ってみると、『馬鹿一』ではその「異端者」的思想が物語の中心に据えられている。つまり、他に小説として魅力的な要素が無い(あるいは分かりづらい)ために、ただの理想を追っているだけの小説だと批判されるのかもしれない。

僕は実篤に関しては完全に門外漢なのでこれまでにどんな研究が蓄積されてきたのかほとんど知らない。知らない立場から言わせてもらえば、実篤研究は「そうだよ、理想主義的だよ」と開き直るか、「理想主義的ではない面を探して、実篤の多層的な読みを可能にしよう!」というどちらかから出発すると良いんじゃないだろうかと思う。


色々書いてみたけれど、実篤をほとんど読んだことのない僕にはいささか無理のある分析だったかもしれない。ただ、これから実篤⇔伊坂という評価軸をもって両人の作品に取り組んでいけるということは、僕にとって何かプラスになるかもしれない。実篤に関しては「おめでたき人」、伊坂に関しては『モダンタイムス』を読もうと考えている。
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